戸隠への誘いTOGAKUSHI
I. 戸隠の歴史
1. 戸隠神社の創祀
- (1)戸隠神社蔵も含めて、全国に5枚しかないこと。
- (2)他の4枚は、法隆寺、東大寺(2枚)、道明寺天満宮であり、関係する人物が聖徳太子、聖武天皇、菅原道真という、日本歴史上特に顕著な業績を残された方々であること。
- (3)象牙の目先が通っているため、「通天笏」と呼ばれ、形状・寸法からみて、東大寺の1枚と類似していること。
- (4)時代は奈良時代前後までさかのぼり、国の重要文化財に指定されていること。
戸隠の歴史を訪ねる1つの方法として、なぜこの牙笏が戸隠神社に保蔵されているのかという問いから始めてみよう。ここで、次の提示を3点掲げる。
- (1)この牙笏は実用品でなく、戸隠神社に奉納されたとみること。
- (2)奉納者は、日本史上に名を残している特に著名な人物であること。
- (3)人物の時代は、奈良時代前後とみること。
さて、この仮説に迫る極めて有効な書物がある。『日本書紀』の持統天皇に関する記述である。
持統天皇5(691)年は、4月から雨が降り始め、5月、6月と季節はずれの長雨が続いた。
この状況をみて、持統天皇は農耕に大きな被害が出るかもしれないと、心を痛められた。そして、解決の手だてを図られるのである。通常の祭祀としては、天武天皇より継続して、4月と7月に広瀬大忌神(おおいみのかみ)(水神)と竜田風神(風神)とを祀らせている。
特別の対応として、まず公卿、役人に飲食を制限させ、修養と悔過(罪を懺悔し、罪報から免れるための儀式)につとめさせている。さらに、京及び畿内の諸寺に読経させている。6月には大祓(おおはらえ)も実施した。その上に、8月には、改めて竜田風神と、全国の中から殊に信濃の須波・水内(みのち)等の神を祭らせたのである。
この須波、水内等の神というのは、この年の自然状況からみて、風雨・水の運行を掌り、畏敬すべき験力旺逸(げんりょくおういつ)の神を想定しなければならないだろう。それに相応するのは龍神に対する尊崇と考えられる。 今年の長雨を止めるべき神、今後の風雨水の順行を祈願するべき神として、須波と水内の龍神に託されたのではないだろうか。
諏訪湖に住む龍神、戸隠山に住む龍神。諏訪湖から見て、ほぼ戸隠山が位置する北は、陰陽五行の説では、"水気"の方角に当たる。水内(みのち)という地名、裾花(すそばな)川、楠(くす)川、鳥居(とりい)川の源流地、山の直下の洞穴(竜穴)、水気を重ねていく風水の"たたみ込み"が感じられそうである。戸隠神社の源流は持統天皇5(691)年、8月23日、諏訪とセットされた龍神祭祀に始まるとみてよいのではないだろうか。
ここではその神名を、天頭龍大神(あまのかしらたつのおおかみ)としておく。
さて極めて私見であるが、その後間もなく、風雨の水神である龍神に対して、日の神(ひのかみ)である天照大神(あまてらすおおみかみ)を天岩窟(あまのいわや)からお迎えした手力雄神(たぢからおのかみ)を合わせてお祀りしたのではないかと推測している。その発想となったのは、戸隠山そのものが磐戸(いわと)を想起させる山型であり、殊に特定の場にある、岩の存在が大きく意識されていたのではないかという推測である。
2. 神社から寺へ
『日本書紀』の持統天皇紀より以後しばらく、戸隠神社に関する記述が、その他の文献には見られない。このことにより、偉大な支援者を失ったため、神社としての形態は衰退していったのではないかと考えられる。その後戸隠は、学問行者(学問修行者、学門行者)の入山により、急速に仏教化していくことになる。そのことを語る資料は、鎌倉時代の仏教書『阿娑縛抄(あさばしょう)』の『諸寺略記(しょじりゃっき)上』に掲載された戸隠寺に関する縁起である。この資料を「戸隠寺略記(とがくしじりゃっき)」と呼ぶことにする。
戸隠の仏教化を語るもう1つの重要な資料は、室町時代に成立した「戸隠山顕光寺流記(とがくしさんけんこうじるき)」である。この資料を「顕光寺流記」と呼ぶことにする。両書を、学問行者の入山と戸隠の語源に綴って対比すると、次のようになる。
「戸隠寺略記」
- (1)嘉祥(かしょう)2(849)年、学問修行者が戸隠に入山したこと。
- (2)その地に、前の別当の化身である九頭一尾(くずいちび)の鬼が出現したこと。
- (3)戸隠の語源が鬼を戸で隠したからによるものと、飯縄山(いいづなやま)の前にあって戸を立てた(隠し立てた)からによるものという2説を紹介していること。
「顕光寺流記」
- (1)嘉祥(かしょう)3(850)年、学問行者が戸隠に入山したこと。
- (2)その地に、最後の別当の化身である九頭一尾の大龍が出現したこと。
- (3)戸隠の語源が、大龍を戸口でふさぎ隠したからということ、「実には」という言葉の後に「手力雄命が天の岩戸を隠し置いたから」という記述をしていること。さらに、その戸は「今でも現在している」と続けていること。
- (4)本院(ほんいん)、宝光院(ほうこういん)、中院(ちゅういん)、火(ひ)の御子(みこ)に安置する仏像について
- [本院]九頭龍権現(くずりゅうごんげん)
- [宝光院]地蔵権現 康平(こうへい)元(1058)年開創
- [中院]釈迦権現 寛治(かんじ)元(1087)年開創
- [火の御子]「西方補処(さいほうぶしょ))の薩埵(さった)」「八大金剛童子(はちだいこんごうどうじ)」
3. 仏と神の共存
ほぼ仏教一色の感となった戸隠であるが、現在の戸隠神社の祭神名が明らかになる資料は、永禄年間(1558~1569年)の成立と考えられている『戸隠山本院昔事縁起(とがくしさんほんいんせきじえんぎ)』である。
この資料によると、おそらく天暦(てんりゃく)年間(947~956年)に伊那から阿智(あち)社の祝(はふり)が、登山して、天手力雄神の本殿に、表春命(うわはるのみこと)、思兼命(おもいかねのみこと)の2柱を相殿となして、祭らしめたとある。
その後、康平元(1058年)に表春命を宝光院に分社し、思兼命を寛治元(1087年)に中間に分社したとある。
江戸時代中期の成立である『戸隠山大権現縁起(とがくしさんだいごんげんえんぎ)』には、火の御子の祭神として、栲幡千々姫(たくはたちぢひめ)が記されている。
こうして、神と仏の共存、習合する時代が江戸時代末まで続くことになる。
4. 神仏分離令を受けて
江戸時代までは「戸隠山顕光寺」と称していたが、実質的には神社としての信仰も定着してきていたと思われる。
明治時代に入り、このような神仏習合は許されず、神と仏は明確に区別すべしとの令を受け、戸隠ではほとんどの仏像、仏典、仏具を山内から排除し、神社としての再スタートを切ることになる。
現在は、次のような社名を掲げ、御祭神に奉仕申し上げている。
- ・奥社 手力雄神
- ・九頭龍社 九頭龍大神
- ・中社 思兼神
- ・日(火)之御子社 栲幡千々姫命 天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)
- 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと) 天鈿女命(あまのうずめのみこと)
- ・宝光社 表春命(うわはるのみこと)
- (1)神名の漢字、読み仮名は『日本書紀』による。
- (2)九頭龍大神は、慶応4(1868年)神祇官(じんぎかん)からの指示による。
- (3)表春命は『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』による。
II. 戸隠の歴史と共に~宿坊宮澤旅館の歩み
- (1)中光坊(ちゅうこうぼう)として
- 学問行者の入山以来仏教化した戸隠は、平安時代末から鎌倉時代にかけては、比叡山延暦寺の末寺となった。
当家は中院に居を構え、中光坊と称していた。 - (2)宝蔵院として
- 戸隠山顕光寺は、江戸時代前期には東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)の支配下に組み込まれた。
やがて元禄年間には、坊号から院号へ改めることになる。この時当家は宝蔵院と称した。 - (3)現姓宮澤として
- 明治元(1868)年11月25日、中社神前では、午前中に仏式による法要が行われ、午後にはまったく新しく神式による祭典が行われた。
当家においてそれは、宝蔵院最後の住職恵林(けいりん)が僧としての務めを終え、改名した宮澤瑞穂(みずほ)が一転して神主として戸隠神社に奉仕する姿でもあった。
明治以降当館は、祈りの場、癒しの場、研修所、合宿所、憩いや寛ぎのスペースとして四季を問わずご利用頂いています。
皆様のお越しを心よりお待ちいたしております。